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変遷


小学校第一校

明治になって、新しい国づくりのために教育が大切だと考えた政府は、明治5年に「学制」という規則を定めて、全国の町や村に小学校を開くことにしました。

 この規則にしたがって、明治6年(1873年)2月5日に「第三中学区小学第一校」が開かれました。これが養正小学校の始まりで、創立記念日はこの日を記念したものです。津市では、同年5月に、今の修成・南立誠・新町にあたる学校も開かれています。

 「小学校第一校」は、「有造館」の建物を利用して開かれました。「有造館」というのは、江戸時代に津藩が武士の子どもたちの教育のために開いた、津藩の学校でした。そのあとに入ったのですから、大変いい学校であったといえます。その場所は、今のNTTのあたりでした。

養正学校

 学校ができたばかりの頃は、学校へ来る子どもも少なかったのですが、年々子どもが増えるにつれて、学校もせまくなってきました。

 そこで、京口町に校舎を新築しました。その場所は、今の中央保育園のあたりだったようです。明治11年(1878年)6月には、新校舎ではなやかな開校式を開き、学校の名前を養正学校と改めました。この名前は、それまで使っていた校舎(有造館の養正寮)にちなんだものです。養正寮というのは、江戸時代に今の小学生ぐらいの年ごろの子どもたちが勉強していた学校だったのです。

 京口町にできた新しい校舎は、洋風の2階建て、教室が18もあり、三重県下第一の立派な学校でした。その頃の学校は、尋常科4年、高等科4年となっていましたが、高等科があるのは養正学校だけでした。津市内はもちろん、なかには経ヶ峰のふもとの村から馬に乗って通っていたそうです。

養正尋常高等小学校

 その後、学校のしくみや名前が何度も変わりました。学校へ入る子どもは、年々増えてきて、明治の終わり頃には、尋常科の4年間はほとんどの子どもが通うようになりました。そのため校舎がせまくなってきたので、明治27年(1894年)に丸之内(今のNTTのあたり)へ新しい校舎を建てて、まず高等小学校が移りました。続いて、翌年には尋常小学校もそこへ移りました。その校舎はその後、何度も建て増しをして、昭和20年(1945年)に戦災で焼けるまで、約50年間続きました。

 明治40年(1907年)には、尋常科6年が義務制となり、高等科が2年となりました。

 大正6年(1917年)には、学校の名前も津市立養正尋常高等小学校と改められました。

 その頃は、尋常科を卒業すると5年制の中学校へ行くのが普通でした。このような学校の仕組みは、ずっと長く続きましたが昭和10年(1935年)になって、津市内の高等科をまとめて、今の西橋内中学校のところに津市立高等公民学校という学校ができたので、養正学校の高等科は、その長い歴史を閉じました。

津市養正国民学校

 昭和16年(1941年)4月から、学校の名前が「津市養正国民学校」と改められました。そして、その年の12月8日にアメリカとの戦争が始まりました。

 戦争は、しだいにはげしくなって、とうとう昭和20年(1945年)7月津の町も空襲をうけて焼け野原になりました。そのとき、養正国民学校もすっかり焼けてしまい残ったのは講堂の鉄骨だけでした。

 1500人あまりいた子どもたちも家が焼けてちりぢりになり、その後しばらくは焼け残った修成小学校に間借りして不自由な思いで勉強を続けました。

津市立養正小学校

 戦後、昭和22年(1947年)4月からは、小学校6年、中学校3年の義務教育となり、学校の名前も「津市立養正小学校」となりました。その年の9月には、丸之内の焼け跡に校舎が建ち、やっと元のところにもどりました。

現在の場所へ

 すっかり焼けた津の町を復興するため、新しい都市計画にもとづいて新しい道をつける仕事が始まりました。そのとき、養正小学校も新しい都市計画にもとづいて、丸之内から現在の場所(玉置町)に移ることになりました。昭和27年(1952年)に新しい校舎が建ちました。戦後、津市としてはいちばん早く本格的に建てられた校舎で、その頃としては目立って立派なもので、県下各地から多くの人が見学に来ました。それが、今の鉄筋コンクリートの校舎の前に使っていた木造校舎です。